横軽の思い出です。
- 2017/09/07
- 19:14
初めて碓氷峠を見たのは、もう35年近く前のことで、当時小学生だった自分には、特に感慨はありませんでした。
というのも、その時はまだ知識不足でしたから。 当然写真も殆ど残っておらず、ネガも紛失したようです。
JRになり、平成4年ごろに再度訪れています。
その時はまだ、熊ノ平信号所の旧線路跡のトンネルが封鎖されていない時で、下り線(登り坂)と上り線を歩いて渡りながら、頻繁にやって来る特急達の写真を撮りました。

この写真は、もう熊ノ平が入れなくなって以降ですが、それでも、横軽らしい写真は探せば撮れたものです。
この場所にはおぎのやの釜飯看板があって、わざわざ入れてみました。 9両の白山と2両の機関車、合計9両が無理なくファインダーに収まって、今でも大切な1枚です。

最後に訪れたのは9月初旬でしたから、ちょうど今から20年前の今頃でした。
最後も雨になり、訪れたときは決まって雨が降っていたように思います。 その分撮影ポジションに余り制約がなく、下りり60キロ、上り45キロの制限速度ですので、下手でもブレずに撮る事が出来、その後の写真の上達の糧になった気がします。
先日もEF70の部品盗難の記事を見ました。
横軽に縁はありませんが、この地からは信州だけでなく、新潟や北陸、更には大阪を目指した名列車が数多く行き交ったこと時代に立ち会えたことは幸せだと思います。
それゆえに、クハ489-501も初めはマスコンが無くて寂しい思いがあったのですが、急行型電車のお下がりを譲り受け、電気も点灯するまでに当時を語るアイテムになりました。
実車そのものの部品と言わずとも、同じ形状のものをお持ちの有志がいらっしゃれば、貸し出しということでご提供されてみては如何でしょうか。
「放置状態」だと、どうしても盗難の悪因となります。
「運営管理」をマメにしているだけでも、魔除けにはなる筈です。
というのも、その時はまだ知識不足でしたから。 当然写真も殆ど残っておらず、ネガも紛失したようです。
JRになり、平成4年ごろに再度訪れています。
その時はまだ、熊ノ平信号所の旧線路跡のトンネルが封鎖されていない時で、下り線(登り坂)と上り線を歩いて渡りながら、頻繁にやって来る特急達の写真を撮りました。

この写真は、もう熊ノ平が入れなくなって以降ですが、それでも、横軽らしい写真は探せば撮れたものです。
この場所にはおぎのやの釜飯看板があって、わざわざ入れてみました。 9両の白山と2両の機関車、合計9両が無理なくファインダーに収まって、今でも大切な1枚です。

最後に訪れたのは9月初旬でしたから、ちょうど今から20年前の今頃でした。
最後も雨になり、訪れたときは決まって雨が降っていたように思います。 その分撮影ポジションに余り制約がなく、下りり60キロ、上り45キロの制限速度ですので、下手でもブレずに撮る事が出来、その後の写真の上達の糧になった気がします。
先日もEF70の部品盗難の記事を見ました。
横軽に縁はありませんが、この地からは信州だけでなく、新潟や北陸、更には大阪を目指した名列車が数多く行き交ったこと時代に立ち会えたことは幸せだと思います。
それゆえに、クハ489-501も初めはマスコンが無くて寂しい思いがあったのですが、急行型電車のお下がりを譲り受け、電気も点灯するまでに当時を語るアイテムになりました。
実車そのものの部品と言わずとも、同じ形状のものをお持ちの有志がいらっしゃれば、貸し出しということでご提供されてみては如何でしょうか。
「放置状態」だと、どうしても盗難の悪因となります。
「運営管理」をマメにしているだけでも、魔除けにはなる筈です。
スポンサーサイト