103系の役割
- 2017/09/09
- 23:03
ボンネット特急隆盛の時代に、同時に隆盛を極めた通勤型といえば、103系でした。
関西の103系は昭和56年まで増産されたので、普通に考えると489系の最終生産が昭和55年度ですから、同じ頃に全滅してもおかしくなかった筈です。
でも、JR西日本は全く103系シリーズを無くそうと思っている気がしません。
まだ奈良線には山手線と同じウグイス色が沢山走っていますし、播但線には哀れな更新改造で姿からは想像し難いものの、一応103系です。
そして常磐線の主だった1000番台から改造された105系に至っては、和歌山線や紀勢本線でバリバリに走りまくっています。
大阪環状線からは10月3日で撤退するそうですが、もうしばらく郊外路線では現役なのでしょう。 いつまで走るか、ボンネット世代として頑張ってもらいたいです。

1994年4月、たまたま1番に乗ったことがありまして写真を撮っていました。 場所は弁天町駅です。
この数か月後には戸袋窓が無くなり、ステンレスの窓受に更新されてしまった、今の京都鉄道博物館に残る哀れな姿になってしまいました。

1994年6月、駅名が「JR難波」となることから、風情ある昔の関西本線の終点駅、湊町へ行く際に、完成直後くらいの環状線今宮駅から通路を渡って関西本線ホームに行ったときです。 まだ環状線は内回りしか今宮駅は出来ていなかったと思います。

サンダーバードがデビューする直前まで、和倉温泉発の特急雷鳥28号は、大阪駅で回送表示する為に盛大に幕回転大会をしていました。 ですからきらめき大阪行きではありません。 福知山線の103系は昭和56年の宝塚電化で新造投入されたので、運転台が高い、ちょっとオシャレなカナリア色でした。 タカラヅカを意識しているかもしれません。

緑の環状線は当時とても好きでした。 オレンジの8両編成は、中間に付随車のサハ103かサハ102が入る4M4Tになっていますが、関西線から環状線に入って来る緑の103系は、先頭がクモハ103でパンタグラフが載っていました。 4両編成を2組併結していたのも面白かったです。
この頃すでに、大和路快速から113系は撤退していましたが、はるかが走り出すまでの期間は、今以上に大きな変化があった時代で、103系はその中で安定感バツグンだったと思います。
関西の103系は昭和56年まで増産されたので、普通に考えると489系の最終生産が昭和55年度ですから、同じ頃に全滅してもおかしくなかった筈です。
でも、JR西日本は全く103系シリーズを無くそうと思っている気がしません。
まだ奈良線には山手線と同じウグイス色が沢山走っていますし、播但線には哀れな更新改造で姿からは想像し難いものの、一応103系です。
そして常磐線の主だった1000番台から改造された105系に至っては、和歌山線や紀勢本線でバリバリに走りまくっています。
大阪環状線からは10月3日で撤退するそうですが、もうしばらく郊外路線では現役なのでしょう。 いつまで走るか、ボンネット世代として頑張ってもらいたいです。

1994年4月、たまたま1番に乗ったことがありまして写真を撮っていました。 場所は弁天町駅です。
この数か月後には戸袋窓が無くなり、ステンレスの窓受に更新されてしまった、今の京都鉄道博物館に残る哀れな姿になってしまいました。

1994年6月、駅名が「JR難波」となることから、風情ある昔の関西本線の終点駅、湊町へ行く際に、完成直後くらいの環状線今宮駅から通路を渡って関西本線ホームに行ったときです。 まだ環状線は内回りしか今宮駅は出来ていなかったと思います。

サンダーバードがデビューする直前まで、和倉温泉発の特急雷鳥28号は、大阪駅で回送表示する為に盛大に幕回転大会をしていました。 ですからきらめき大阪行きではありません。 福知山線の103系は昭和56年の宝塚電化で新造投入されたので、運転台が高い、ちょっとオシャレなカナリア色でした。 タカラヅカを意識しているかもしれません。

緑の環状線は当時とても好きでした。 オレンジの8両編成は、中間に付随車のサハ103かサハ102が入る4M4Tになっていますが、関西線から環状線に入って来る緑の103系は、先頭がクモハ103でパンタグラフが載っていました。 4両編成を2組併結していたのも面白かったです。
この頃すでに、大和路快速から113系は撤退していましたが、はるかが走り出すまでの期間は、今以上に大きな変化があった時代で、103系はその中で安定感バツグンだったと思います。
スポンサーサイト